今日は有線収録。
声は若干オカマのようですが、とりあえず終了。ほ。
さて。
今日のブログは、どうでもいいような内容です。ごめんなさいね。
咳喘息の間、出来る限りずっと家にいました。
とにかく動けば咳が出るし、
横になっても咳が出るし、
咳だけだから…と思ってちょっと無理すると、夜、倍返しだし。
「わかりました。動きません!」
とにかく、ぼんやり、競泳とか見ちゃう日々(←じゃあ、稽古しろよ)
そんな中、ちょっと良かったかな、と思ったのは、
「母と無駄話をしたこと」
でした。
一緒に暮らしていますが、日々、必要以外の事は母とあまり話しません。
大体、母の話と云うのは、愚痴か、御願い事か、噂話か…まあ、そんな感じです。
でも、ぼんやりと家にいたので。
必然的に、話をしました。
母が行く敬老館には、様々な老人たちが集まります。
それは、デイサービスのような介護保険を使ったものではなく、児童館の老人バージョンのようなもの。
老人たちが集い、おしゃべりしたり、ゲームしたりしながら過ごす場所で、母はここで日中友人たちと過ごします。
その、敬老館での出来ごと。
敬老館は、自分の事は自分で出来る老人たちが集う場所、なのですが、中には軽度の認知症の方もいらっしゃる様子。
最近、ある女性の行動が問題になっている、というのです。
母より4歳若いその女性は、健康体なのですが、軽い認知症らしく、お風呂で人の着替えを着てしまったり、タオルを忘れて毎回借りて返さなかったり、いろいろと問題行動があるそうなのです。
でも、本人はまったく気が付かず、普通に行動しているつもりなのだとか。
健康だし、いつもおかしいわけじゃないから「来るな」とも言えず、皆が困っている、とのこと。
たぶん“まだら”なんでしょうね。
ところどころ、認知症が出てしまう。
でも、しっかりしているところもあるから、周りの人が自分に向ける視線に気が付いているそうで。
時々、十数人分のシュークリームとか買って、
「みんな、食べて!」
と差しいれたりするんだそうです。
もう、そういう話を聞いてしまうと、切なくなってしまう。
痴呆症の方は、自分の行動が正しいと思っている人が殆ど。
でも、自分では正しいことをしているのに、叱られたり、嫌われたりしてしまう。
その認識の差に、イライラして、非常に怒りっぽくなってしまう。
すぐ、怒鳴ったり、果ては暴力をふるったり。
そして、さらに孤立を深めてしまう…という悪循環。
誰も悪くない。
どうすることも出来ない。
解決策は、多分、ない。
私には介護の知識が多少あるけど、知識があったとしても、それを寛容に受け止められる自信などない。
ましてや、専門の知識がない人からしてみたら、迷惑な話だろう。
「ねえ、その人はね、周りに迷惑をかけていることがわからないんだよ。
だから認知症なの。
でも、皆が距離を取ったりするから、きっととっても寂しいんだよ。
だから、シュークリーム買ったりして、皆に仲良くしてほしいって思ってるんだよ。
だから、せめてママはその人に意地悪とかしないでね」
そう言ったら、意外にも、
「誰ひとりとして意地悪する人なんかいない」んだそう。
なぜ?と聞いたら。
「いつ、自分がそうなるかわからないから」
ああ、なるほど、と思いました。
「明日は、わが身」
そう思ったら、意地悪なんか出来ないですよね。
誰しも、なりたくてなるんじゃない。
努力とか、そういうもので補えるものでもない。
いつ、誰がそうなるか、判らない。
自分も、いつかそうなってしまうかもしれない。
そう思ったら
「困ったなぁ」
と思っても、意地悪なんかできっこない。
今の私は、
今日出来ないことも、明日はできるかもしれない、と思って生きている。
でも、母たちは、
今日出来たことも、明日には出来なくなっているかもしれない、と思って生きている。
今の私が想像すると、それは恐怖でしかありません。
多分、かなり先の事でしょうけど
私にとっても「明日は我が身」かもしれない。
これは「老い」だけでなく、全ての事において言えること。
「人にやさしく」って、そういうことなのかもしれない。
これって、とっても大事なことなんじゃないかな。
ああ、私は四十を超えても、まだまだ、ものの道理を知らない。
分かっているようで、分かっていないことが、沢山ある。
「老いては子に従え」
なんて言葉もありますが、
「老いたる馬は路を忘れず」
まだまだ、親から教えられることがあるなぁ、と、しみじみ思った夜。
ブログに書くことじゃないかもしれませんが、自分の覚書として「閑話」でした。